午後5時前。
まだ開かぬ店の前には10メートルほどの行列ができ、午後5時の開店を待っている。並んでいるのは中国人、欧米人、韓国人、日本人など様々な国籍の旅行者たちだ。
彼らが開店を待っているのは『ティップサマイ』。各国のガイドブックをはじめブログやYouTube、SNSなどで取り上げられ、連日行列が絶えないパッタイ専門店である。
パッタイとは米麺をエビやもやしなどの具材と炒めた麺料理で、タイ料理特有のスパイシーさはなくパクチーなどの香菜が使われていないことから好む人は多く、欧米人にも広く知られたタイ料理である。
料理名のパッタイは「パット(炒める)」と「タイ」の組み合わせ。タイの国名が入っていることから、タイ料理を代表をするひとつとして挙げる者もいるほどだ。
バンコクに数あるパッタイ専門店の中で、知名度や客数で抜きん出ているのが今回取り上げる『ティップサマイ』である。パッタイというタイ料理がこれほど認知された要因に、『ティップサマイ』が重要な役割を果たしたといっていいだろう。
そこにいたるまでの軌跡を知るには、『ティップサマイ』が創業した第二次世界大戦中まで遡る必要がある。
パッタイ専門店としてもっとも古い『ティップサマイ』
今回、私のインタビューを快諾してくれたのは『ティップサマイ』オーナー夫人のナー氏(Thanyanan Reungwetwattana)である。オーナーのヌイ氏が多忙を極めスケジュール調整が難航したため、ナー氏が対応してくれることになった。赤いオリジナルTシャツを着用し柔らかな笑みを浮かべる彼女。二階席へ案内してくれたナー氏は『ティップサマイ』の創業期から話を始めてくれた。
「うちのお店が創業したのは第二次世界大戦中のころです。パッタイが注目されるようになったのは、当時のピブーン首相がパッタイを広めようとしていたことがきっかけでした」
ピブーン首相(プレーク・ピブーンソンクラーム)とは、第二次世界大戦真っ只中の1938年から1945年、そして戦後の1948年から1957年までの二期に渡り首相を務めた政治家である。
ピブーン首相は第二次世界大戦後、米生産のコストが上がったことにより、米食ではなく折れた稲を原材料にできる米麺を広めようとキャンペーンを発案。当時、米麺といえばクイッティアオが主流だったが、ピブーン氏は中華料理がルーツのクイッティアオではなく、ナショナリズムの高揚も絡め、タイの麺料理であるパッタイを推奨した。
『ティップサマイ』の創業はこの頃である。
「『ティップサマイ』を創業したのは現オーナーの祖母です。サムットサコーン県のクラトゥンベーン郡(เขตกระทุ่มแบน)のパシジャルン運河(คลองภาษีเจริญ)で船を漕ぎ、クイティアオパットを売り始めたのが始まりでした」
創業当時、米麺を炒めた料理はパッタイではなく「クイッティアオ・パット」と呼ばれていた。その後「クイッティアオ・パッタイ」になり、「パッタイ」という名称になっている。
祖母がクイッティアオ・パットを運河で売り始めてから、2019年でちょうど80周年。『ティップサマイ』はバンコクでもっとも古いと言われているパッタイ専門店である。
2つの店名を持つパッタイ店
サムットサコーン県の運河で細々とクイッティアオ・パットを作っていた祖母の娘(現オーナーの母親)は、ある男性と結ばれた。二人は地元で結婚。夫はサムットサコーン県で漁師業を始めたが、うまくいかず廃業へと追い込まれる。
「事業が失敗したので二人はバンコクへ移り住むことにしたんです。母親はパッタイ作りを幼いころから見ていたこともあり、腕が良かったのでパッタイの屋台を始めたんです」
彼女のパッタイ屋台のウリは、当時まだ一般的に使われていなかった海老を使ったパッタイだった。夫が漁師だったこともあり、新鮮な海老が入手できたことで発案したメニューだったと言う。海老味噌を使ったパッタイは他にはなく、評判は少しずつ広まり来客数は伸びていった。
そしてある日、パッタイを推奨し続けてきたピブーン氏が彼女の屋台に姿を現した。
「彼はうちのパッタイを食べて『ここのパッタイはタイ人による本格的なパッタイだ!』とおっしゃってくれたんです」
パッタイ育ての親とも言えるピブーン氏から絶賛の言葉をかけてもらい、2人はさぞ感動しただろう。
屋台での屋号は、近くにあったプラトゥーピー交差点の名称を使い『パッタイ プラトゥーピー』と名付けていた。その後、繁盛してきたことで店舗へと移転し、そのタイミングで店名を変えている。
母親の名前であるSamaiと、Thip(神のように超越していて素晴らしい、という意味の言葉)を組み合わせた、『ティップサマイ/THIPSAMAI』という現在の店名だ。
我々日本人や諸外国の旅行者にはこの『ティップサマイ』が通名となっているが、タイ人にはこの店名が伝わらないことがたびたびある。彼らの中にはいまでも以前の屋号である『パッタイ プラトゥーピー』と呼ぶ者が少なくないためだ。
『ティップサマイ』には”何が"あるのか
『ティップサマイ』に開店前から行列ができているのは日常の風景である。その列の長さはピークを迎えると数十メートルにも及ぶ。バンコクに行列ができる店は多々あれど、数十メートルもの行列を見ることができる店は希少だろう。しかも『ティップサマイ』は年中無休で毎日がこの状況だ。
いったいこの店には”何が”あるのか。
「パッタイの麺にセンチャン(チャンタブリー県産のパッタイでよく使われる幅広の麺)を使ったのはうちが初めてです。味付けに海老味噌を使い始めたのもそうです。他店との違いは、シェフの腕前もあると思います。薄い卵焼きにパッタイを包む技術ですね。中のパッタイが透けて見えるほどの薄さで作っています」
『ティップサマイ』へ来店したことがあれば、店頭で調理しているスタッフの姿を見たことがあるだろう。
使っている火力は炭火。そこにフライパンを乗せ、手早く薄焼き卵を作り、パッタイを包んでいく。時間にして10秒もかかっていない。この薄焼き卵でパッタイを包む調理技術は、体得するまでに5年は必要だとナー氏は話す。
「材料も厳選し一番良いと思えるものだけを使っています。新鮮な海老をはじめ野菜もしかり。もやしはすべてオーガニックです」
パッタイで使われるチャイポー(ไชโป๊・タイの沢庵)にいたるまで、オーナーであるヌイ氏が厳選したものを使っている。
独自レシピの麺は信頼できる工場で製麺。発注している製麺工場は3つほどあり、米の出来次第によって工場を変えていくそうだ。
そしてポイントの3つ目だと話してくれたのは、炭火。いまでもガス火ではなく炭火を使用しているのは、独特の香りが得られるためだと言う。炭にも味があり、それが料理の味にもなるというのだ。
パッタイへ徹底した情熱を注いでいる『ティップサマイ』だが、こだわりはそれだけでない。
「うちの店では科学者も使っています。材料の質などを調整しクオリティコントロールを任せているんです。研究室も設け品質管理のための実験なども行なっています。もちろんお金はかかりますが、こういった投資をすることで、衛生的かつ美味しいものが提供できればそれでいいんです」
タイでもっとも長い行列を作る稀代の名店は、他の追随を許さぬよう、研究者を使ってまで品質管理を徹底し、新商品を開発しているのだ。
本物のパッタイを世界中の方々へ届けたい
『ティップサマイ』は本店以外に支店を3店舗展開している。バンコクの隣県であるナコンパトム県のPhutthamonthon Sai 4 、キングパワー ランナム(KING POWER Rangnam)の三階、2018年にオープンしたICON SIAMと、どこもバンコク都内と隣県のみ。バンコクから離れた県や他国へ出店していないのは”パッタイの質”を落とさないこと、その1点である。
「私とヌイが常に考えているのは料理の質、材料の質、味、サービスの質など、すべての”質”です。これらをすべて満たそうとすると、たくさんの店を一気には出店できないです。なので少しずつゆっくりと歩んでいきたいと思っています」
いま現在も、プーケットやチェンマイ、コンケーンといった、いろんな街の商業施設から出店の声がかかっているという。
多店舗展開を一気に進められないとはいえ、ヌイ氏とナー氏は世界の人々に本物のパッタイを届けたいと話してくれた。
「私がアメリカに留学していたとき、中華系料理店やベトナム料理店のメニューに載っていたパッタイを注文したことがあるんです。メニューには”パッタイ”って書いてありましたが、出てきたものはパットシーユ(センイヤという太麺をシーユで炒めた料理)。メキシコ料理店でもメニューに”パッタイ”ってあったので注文してみたら麺がパスタになっててケチャップで味付けされていました(笑)」
ヌイ氏はこの話を聞き、「本物のパッタイを世界に知ってもらおう」という思いが強くなった。そのために彼は、母親が編み出した海老味噌のソースを、工場で製造できるよう何年もかけて開発。最近になりようやく工場での製造準備が整い、店頭で販売できる日も近くなった。麺とソースとをセットで購入すれば、自宅でも本格的なパッタイが味わえるのだ。
インタビュー中、彼女は口にこそしなかったが、本音を言えば世界中に『ティップサマイ』を出店したいはずだ。しかし店舗展開を急げば急ぐほど、”質”が落ちてしまうのは避けられない。
だからこそソースの工場生産を可能にするため、開発に何年も費やし、世界中へ届けようと努力してきたのだ。
運河で細々と営業していた祖母。
追われるようにバンコクへ出て来て、屋台を引き始めた両親。
パッタイへの情熱は三代に渡って育まれてきた。
ピブーン氏がパッタイをタイ国民に広めようとしたその想いは、『ティップサマイ』によって世界へ羽ばたこうとしている。
あまり知られていないが、パッタイ育ての親とも言えるピブーン氏は1957年のクーデターで失脚後、日本へ亡命。
1964年、神奈川県相模原市の仮住まい先で亡くなっている。
取材・撮影・文/西尾康晴