タナッシー・サワディワット氏(หม่อมราชวงศ์ถนัดศรี สวัสดิวัตน์)が2019年8月27日に永眠した。享年92歳。
タナッシー氏は「緑の丼」の創始者として知られ、バンコクの食堂やレストランで見かける通称「緑の丼マーク」は、彼が広めたものである。
緑の丼の正式名称である「シェル・チュアンチム(เชลล์ชอนชิม)」。
ガソリン会社のShell Thailand社が発案したことで、この名称が付けられた。
発案のきっかけとなったのは、家庭用ガスの普及が目的だった。
1960年ごろ、食堂など飲食店では料理の火力を薪や炭に頼っていたため、家庭用ガスの販売を始めたShellはこれを普及させるべくプロモーションを思案していた。
頭を悩ませていたシェルの販売促進担当者が目を付けたのが、フランスで成功をおさめていた「ミシュランガイド」だった。
ローカルのタイ料理店をレビューをすることによって、Shellのブランドイメージを飲食店に広めようという狙いである。「シェル・チュアンチム」と名付けられたこのプロジェクト、理念として掲げられたのは「美味しい料理」「おもてなしのサービス」「消費者への安全」。
この理念に沿った店をタナッシー氏が選び、記事を書く。そして掲載した店舗には証明書を授与していく。
こうして骨組みが作られたシェル・チュアンチムのプロジェクトは、タナッシー氏の初原稿が掲載された1961年10月4日にスタートした。
ちなみに、第一号店として選ばれたのは旧市街地にある『ルークチン マンサモンムー タイタン(ลูกชิ้น – มันสมองหมู ไทยทำ )』である。
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「緑の丼」創設者、タナッシー氏にインタビューを申し込んだが
シェル・チュアンチムのロゴは当初、Shell社のロゴと同じく貝をイメージした図柄だったが、1982年に現在使われている「緑の丼」に変更されている。
この丼マークは「信用できる店舗」として日本のガイドブックなどで紹介されているが、一度授与されるとその後の審査は一切なく、たとえ味が落ちようとも半永久的に丼マークは掲載されている。
ミシュランガイドからヒントを得たプロジェクトだったが、フランスのように厳格には運営されておらず、ある意味「タイらしさ」が表れているといえるだろう。
とはいえ、シェル・チュアンチムによってローカルタイ料理店が国内外にアピールできたことは事実であり、タナッシーの偉大な功績であることには間違いない。
タイ料理界に光を当て続けてきたタナッシー・サワディワット氏。一度お会いして話しがしてみたい。私は2019年3月、タナッシー氏が所有する旅行会社を通じインタビューを申し込んだ。
事務所から返事が来たのは数日後。
「体調不良によりインタビューはできない」という返答だった。
それからおよそ5ヶ月後、「緑の丼」を世に広めたタナッシー氏は、他界した。
屋台や食堂に貼っているMAE CHOICEというステッカー
屋台や食堂へ赴くと頻繁に目にする緑の丼だが、もう一つよく見かけ気になっていたロゴがあった。円形で緑と紫をベースにし、左右両端に星印が4つずつ並べられたデザイン。私は以前からこのロゴを目にするたびに、Wongnaiのような口コミサイトのトレードマークだと思っていた。ところが調べてみると違っていた。
MAE CHOICE.com(メーチョイス)というサイトだった。このサイトはシェル・チュアンチムと同じような活動をしており、評価した店舗にのみロゴのステッカーや看板を授与している。
MAE CHOICE.comを立ち上げたのは、サンティ・サウェートウィモン氏。このサイトは約10年前に創設され現在も運営されている。私はメーチョイスのことを調べるまでサンティ氏のことは知らなかったが、タイ人にはよく知られた人物だという。
サンティ・サウェートウィモン氏とはどういった人物なのか。
私は彼にアポイントを入れ、自身が経営するタイ料理店『メーチョイドイルアン(แม่ช้อย ดอยหลวง)』へ向かったのは2019年8月22日のことである。
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郊外にある、小さな、どこにでもある住宅街といった景色が広がっている。周りを見渡しても開店しているカフェはなく、あるのはクイッティアオの屋台だけ。
バンコクの北に接するノンタブリー県。インタビュー場所として指定された『メーチョイドイルアン』は、このノンタブリー県で営業している。私はGrabタクシーを使い、朝の渋滞に巻き込まれぬようかなり早めに経ったところ、約束の時刻より1時間前に到着してしまった。
時間を潰そうにも、前述したようにコーヒーが飲めそうな店は見当たらない。
『メーチョイドイルアン』の店内を覗き込んでみた。薄っすらと見えたのは開店準備をしているスタッフの姿だ。私は店内で時間を潰させてもらおうと、扉を開けて店内へと歩を進める。
左手から鋭い視線が突き刺さった。
初老の男性が机に向かっている。上目遣いで私の顔を見つめているその彼こそ、サンティ・サウェートウィモン氏だった。
新聞記者として戦場やクーデターを見てきた20代
入店してすぐ左手にある一角には、彼専用のテーブルが置かれ、仕事ができるような造りになっており、私はそこへ通された。
この部屋で彼は、私との約束の1時間以上前から仕事をしていたのだ。
体力、眼光の鋭さ、全身から発している得体の知れない圧力。
73歳とは思えない威圧感ともいうべきオーラは、何かしら”特殊な経験”を積んだ人間しか持ち得ないものであるように感じた。
サンティ氏がバンコクのトンブリー地区で出生したのは1946年1月5日。
タイトップクラスと言われるタマサート大学に入学し、マスコミュニケーション学部でジャーナリズムを専攻。その後、ドイツへ渡りベルリン自由大学で受講した彼は、卒業すると新聞記者になり、ベトナム戦争での戦場記者も経験したという。
そんな彼が料理に関する記事を書き始めたのは1976年である。この年、タイ国内でクーデターが勃発。タンマサート大学虐殺事件(別名:血の水曜日事件)とも呼ばれ、46名が犠牲になるという凄惨な事件にまで発展したクーデターだ。
このクーデターにより、政府からの命令で複数の新聞社の閉鎖を余儀なくされた。言論統制も敷かれた。政治に批判することや記事を作ることが禁止されたことをきっかけに、サンティ氏は料理の記事を書き始めることになった。
MAE CHOICE.comとは
「Mae Choice.comを立ち上げたのは10年ほど前。出版業界が低迷しオンラインメディアが台頭し始めたことがきっかけだったんだ」
新聞や週刊誌で執筆を続けてきた彼だからこそ、紙媒体が低迷していく世の中の動きは肌で感じていただろう。Mae Choiceでは独自の理念を掲げ、その理念に沿ったタイ料理店を取り上げる”食のメディア”にしたのだ。
サンティ氏が掲げた理念は「味」「清潔さ」「良心的な値段」「おもてなしなどのサービス」の4つ。この4つを満たしていれば、4つの星を掲載したステッカーを授与する。ステッカーの有効期限を3年と決め、期限が切れたステッカーが貼ってあったとしてもそれは無効にしている。
つまり一度4つ星を授与しても、再度審査を受けなければ星を剥奪することもありえるのだ。
「これまで数百店舗以上の店に足を運び、ステッカーを授与してきた。それらのお店に来店し『美味しくなかった』という方がいるけれど、ステッカーがいつ発行されたのかを確認してもらいたい」
年月が経てばレシピが変わることもあり、2代目や3代目になり味が変わることもある。そういったことを踏まえ、3年という期限を設けているのだ。「緑の丼」とは明らかに異なっている点である。
自身でもタイ料理店を立ち上げ”タイ料理”を追求していく
彼のあくなきタイ料理への探究心は高まり、ついには自身でタイ料理店を立ち上げるまでに至った。
現在彼が経営しているのは、インタビューで指定されたノンタブリー県の『メーチョーイドイルアン(แม่ช้อย ดอยหลวง)』。この店ではサンティ氏がもっとも親しみがあり好きだというタイ中部料理を中心に出している。
同じくノンタブリー県にある『バーンモンクランナーム(บ้านมอญกลางน้ำ)』では、少数民族のモン族の料理を主に提供。
アユタヤの『バーンアユタヤロム(บ้านอยุธยารมย์)』ではアユタヤ時代の料理を、プラチュアップキリカーン県の『バーンイッサラ(บ้านอิสระ)』ではシーフードをメインとした料理を出している。
「うちの家系を遡ると始祖はアユタヤ時代だった。初代はBunnagという名のペルシャ人で、マッサマンカレーをタイに初めて持ち込んだ人物でもあるんだ」
そういった血筋からなのか、彼の祖母はアユタヤ時代からの古典料理に詳しく、サンティ氏は7歳のころから祖母に料理を教わっていたという。彼が『メーチョーイドイルアン』を立ち上げたのは、祖母から習ったアユタヤの古典料理を継承していきたいという想いからだ。
数々の料理を揃える『メーチョーイドイルアン』で、特にこだわっているのがマッサマンカレーである。ムスリム系のタイ料理であるがゆえ、私はマッサマンカレーをタイ南部料理だと思っていたのだが、サンティ氏はきっぱりと否定した。
「マッサマンカレーはタイ中部料理だよ。アユタヤ時代からある料理だからね。うちの店のマッサマンカレーは、昔からのレシピに充実に作っているので他店とは味わいが違うよ」
私はこの日インタビューが終了してから、マッサマンカレーを始めいくつかの料理をいただいた。サンティ氏が話す通り、彼が監修するマッサマンカレーはスパイスの調合が絶妙で、コクの深さを出しつつ、脂っこさはない一皿に仕上がっている。
これまで何店舗とマッサマンを食してきたが、『メーチョーイドイルアン』のマッサマンが最上だったと言い切ってもいい。
サンティ氏に「タイ料理の中でもっとも好きジャンル」を聞くと、マッサマンカレーに代表されるように、タイ中部料理だと話す。
「アユタヤ王朝から始まりトンブリー王朝、現在のラッタナコシーン王朝と、タイの歴史を動かしてきたのはタイ中部。そういった地域だからこそ諸外国からの食文化がどんどん入ってきた。だからこそタイ中部料理は、他地域にはない豊富なバリエーションが生まれてきたんだ」
73歳の今でも精力的に活動を続けるサンティ氏
タイ全土を巡り、1000軒以上を食べ歩いたサンティ氏。タイ料理の食文化までを知り尽くしたそんな彼だからこそ訊いてみたい。
サンティ氏が考えるタイ料理の魅力とは…。
「タイ料理の魅力は薬効があることだと思う。昔タイ人は森の中に生活を送っていたこともあるため、植物やハーブに詳しく、そういったものを食べてきた食文化を持っているんだ。それは料理名にも表れている。たとえばカノムジーン・ナムヤー。(カノムジーンとは米麺で、ナムヤーは魚をすり潰しココナッツミルクを加えたカレーペーストのこと)ナムヤーを直訳すると”薬の水”という意味。こういう名前が付けられのは、ハーブが入っていることに由来しているんだ」
私はこれまで本企画で数々の人物にインタビューをし、幾人の方には”タイ料理の魅力について”訊いてきたが、「薬効があるから」という意見は聞いたことがなかった。
これまで聞いたほとんどが
「甘い、辛い、酸っぱい、といった3つの味が一体になっている」
という、タイ料理独特の味付けに関することだった。
彼独自のタイ料理に対する見解は、数十年に渡り食べ歩いてきたからこそ創り上げられた世界観なのだろう。
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1946年1月5日生まれのサンティ・サウェートウィモン氏は現在73歳。いまでもさまざまな活動を続けている。
前述したように4店舗ものレストラン運営をはじめ、タイ版「料理の鉄人」であるIron Chef Thailand(アイアンシェフタイランド)の代表、月曜日から金曜日まで週5日あるラジオの生放送、そして2つの週刊誌のオーナー。
73歳とは思えぬ八面六臂の活躍を見せている。
「緑の丼」創設者タナッシー氏が亡くなったいま、サンティ氏にはタイ料理の世界を発信する第一人者としてこれからも活躍してもらいたい。
取材・撮影・文/西尾 康晴(https://twitter.com/nishioyasuharu)